小さな城下町の中に昔からの商家がありました。今で言う旧市内の入り口にあった呉服の商家だったので、近郊の農家が呉服や衣類を購入し易い立地にあったのでしょう。毎日、番頭さんに声を掛ける主人「今日は何箱いった?」番頭さんが答えます「へぇ、2箱半です。」「フム、今日は少なかったな〜。」と主人。毎夕方交わされるそんな会話。この箱というのは、千両箱の事です。その千両箱の中身が大判小判なのか小銭なのか定かではありませんが、兎も角1日に2〜3箱の千両箱を埋め尽くす現金の売上があったという事でしょう。小さな城下町の中では豪商と言われていた商家でした。戦後、その力は衰えたものの、昔からの屋号は健在でした。 そこに婿として入ったのが父でした。父の生家は市内近郊の村で製材業を営む家ではありましたが、当時、旧市内と近郊の村とでは文化的にも経済的にも格差が激しかったのです。父にしてみれば市内の名家に入る喜びより、背負わなければならない責任の重さの方が大きかったのではなかったでしょうか。婿であるが故に、本家としての屋号を汚してはならないという念いが強かった父でした。「自分は先代の代理としてこの家を守ってる」というのが父の口癖でした。同時にわたしには「お前は直系だから誰に遠慮する事もない」と。長男として生まれたわたしに、父のではない、先代の名前の1文字「貞」の字を頂いた事も、その表れではなかったかと今更ながら思うのです。 わたしは小さい頃から父が嫌いでした。わたしが父の性格より母の方に似たせいだとばかり、つい最近まで思っていました。父自身、自分の性格より母の性格の良いところをわたしに受け継がせたかったのでしょう。我が家の家風を継ぐのは、生まれながらにこの家にいた母であったのです。意識的にも、あるいは日々の生活の中で無意識のうちにも、父の中にそういった気持ちがはたらいた事は確かです。父の術中に羽間っていたようです。 生来の性格もあったのでしょうが、そういった婿としての責任感が、その一徹さに拍車を掛けたのでしょう。「言った事は絶対実行する。今まで守らなかった事は只の1度もない。」と言い切った父。頑固一徹、そんな言葉がピッタリの父でした。婿の責任という荷物を一生懸命背負いながら、1度も荷物を下ろす事なく生きた父の人生でした。 1年半前に、医者に嫌も応もなく、いきなり病を告知され、死期を宣告されていた父。その時の若い女医の対応と、若い女医に宣告の経験を積ませたと思われる病院側には、わたしも母も腹に据え兼ねるものが有りましたが、その時以来、確実に近付く死と正面から向き合った父でした。「入院して薬漬けになって廃人のようになって行くよりは、自宅で養生したい」という父の意向で、病院も変えて自宅近くの病院で通院する事にしましたが、喚かず騒がず、じっと死と向き合っていました。 告知から1年が過ぎた頃、自分の葬儀の段取りをわたしに指示しながら涙を流していた父。父の涙を目の当たりにしたのは、生まれてこのかた、その時が初めてでした。「くれぐれもちゃちな葬式はしてくれるな。」と父。「分かった。」と、わたし。 実家とは100k程離れた所に住んでいたわたしは、週に1〜2度父を見舞っていましたが、亡くなる2日前に見舞った時「もういいだろう。楽にさせてくれ。今夜あたり俺は行くから、後はお前が・・・。」と、目を潤ませ声を振るわせてわたしに言いました。 亡くなる前日に、初めてモルヒネを打ったそうです。何も口に出来なかった父が「うまい」と水を3口ほど飲んだそうです。その翌日の朝は、絶対モルヒネを打たせなかったそうです。前日のモルヒネで意識が飛んだ時間があったのではないでしょうか。廃人のようには死にたくないという父の頑固さがモルヒネを拒んだのでしょう。死ぬまで頑固一徹を貫き通した父でした。 「俺は悪人じゃないから苦しまないで大往生で死ぬんだ。」と生前から言っていましたが、予定通り、話しをしていて母がちょっと目を離した隙に息が絶えていたそうです。大往生です。親父、あと1日元気でいてくれる約束だったじゃないか。最後の最後に約束破りやがって。 父は公の場に出る時や御祝儀・不祝儀の包みの名前をいつも屋号で書いてました。先代の代理として出ているのだという証しです。喪主の挨拶の最初に、わたしはあえて父の名を使わず屋号を使いました。もういいよ親父、立派にこの屋号の主を務めたんだから。代理ではなく、立派な屋号の主だったと親戚・縁者、そしてご先祖様に表明したかったのです。 父の葬儀を終え、引き続き行われる初七日の儀式が始まるまでの間、誰もいない葬儀場の父の遺影の前に立ち、線香を1本上げました。どうだ親父、親父に言われた通り、この葬儀まで時間もたっぷり掛けたし、頼んだ坊さんの数も遺言通りだよ、花環や生花も親父の生前の器量で、こんなに頂いて揃ったよ。これでいいか? |