その10

こりゃ、一体何なんだ!(11月9日)

 永々と続く人類の歩みの中で、この時代のこの瞬間に生きている事の奇跡は何億分の1かの確率という事のようです。そんな膨大な確率の中で生きてるのに、人生には不思議な事って結構ありますよね。こりゃ一体何なんだ。

 学校を卒業して社会人に成りたての頃、仕事に追われ休日など取れない日々を過ごしていた私ですが、年に1度、5月の連休を利用して3日間の会社の連休があったのです。本来は社員旅行の為の連休だったのですが、社員旅行には行かず個人的旅行を選んだ私でした。実はその頃、若い私にも恋人がいて、その年に1度だけ彼女とお忍び旅行の計画でいたのです。家族にも内緒の2泊3日の旅行でした。

 初日。朝からそそくさと家を出て、当時の国鉄に乗り一路横浜。横浜に着くと彼女との待ち合わせ場所だった駅前の東急ホテルに。待ち合わせ時間にはちょっと早かったから、取りあえずチェックインしてからホテルの1階にある待ち合わせ場所の喫茶店に入り、コーヒーを飲みながら煙草をくゆらす。いつもそう。約束の時間に彼女が早く来て待つという事がなかったのは学生時代からの事。とはいえ、目の前に立つ彼女の姿を想像しながら、いつも待っている時間を楽しんでいる私でした。

「今日は珍しいものを注文するね。」
いつもはコーヒーを頼むのに今日はチョコパフェ。
「うん、たまにはね。」と笑顔を見せ、銀のスプーンで生クリームを軽くすくい取り、赤い口紅を綺麗になぞった唇へ運ぶ彼女。つるんと口を出たスプーンには、さっきまでの白い生クリームが魔法のように消えていて、白い生クリームと赤い口紅の間を往復する銀のスプーンの動きが不思議な流麗な動きに見えて、何かの話をしながらではあるけれどスプーンの動きにそれとはなしに見とれていた私。

ホテルの喫茶店のレジで支払いを終え、2人で開いてるドアを通り抜けようとした瞬間、わたしの顔から血の気が失せました。向こう側にあるホテルの入り口から、何と親父が入って来るのです。思考が頭を駆け巡り、解答を探し出しました。「何で?どうしてこんな所に居るんだ?あっ、そういえば横浜中華街と鎌倉の旅行があるとか言ってた!ゲゲッ!このホテルに泊まるの?」たまたま私と同じ日程の旅行があると聞いていた事を思い出しました。同じ屋根の下で暮らしてるのに、旅行の時も同じホテルの屋根の下で泊まる事になろうとは。
瞬間的にホテルの入り口側とは反対側にきびすを返し、足早に反対側にあるトイレ方向に向う私の後から「????」で小走りに付いて来る彼女。ホテルの入り口からも喫茶店の入り口からも死角になっているトイレの前まで来て、やっと彼女にその事を告げたのでした。
「親父、気が付かなかったかな?気が付いた顔してた?」と彼女に聞いても「あたし気が付かなかったから分からない。」トイレの前で5分くらいの時間を置いて、もう大丈夫だろうと喫茶室の前を通ると、さっきまで私達がいた席の隣の席に親父が向こうを向いて煙草を吹かしている。私達が席を立つのが5〜6分遅かったら・・・ゾゾッ。それにしても実家から600k以上離れたこんな場所で、こりゃ一体何なんだ。

 2日目。朝から横浜駅で彼女と待ち合わせをして、東京駅乗り換えで軽井沢の一泊旅行に出掛けた私達でした。彼女は箱入りだったから、良く両親が一泊旅行を許してくれたもんだと、「大丈夫だったの?」と聞くと、「今の会社、トリップの多いとこだしね。お父さんお母さんも大分慣れて来たよ。今回もトリップだと言って来た。」と彼女。彼女は一人っ子だったから、長男の私との事は反対されていたのです。軽井沢は天気も良く、初めての2人だけの旅行でした。

 3日目。ナイショの旅行だったから、前の日に自宅からスーツ姿で出掛けた彼女でしたが、この日はオレンジ色のリゾートウェアに着替えていました。オレンジが良く似合ってた。歩いたり、コーヒーショップに立ち寄ったり軽井沢を満喫し、東京駅に着いたのが夜の7時頃。私は上野発9時頃の電車で帰郷の予定だったのですが、その前に都内で1人暮らしの妹と東京駅で会う約束をしていました。何となく彼女を妹に紹介しておこうという気になっていたのです。

待ち合わせ場所の八重洲口の改札付近に彼女と居ると、小走りに妹がやって来ました。開口一番、「お兄ちゃん、富樫さんとそこでばったり!そこで待ってるから会いに行こうよ。」妹に案内され「ああっ!お久し振りです。」小平に住んでいる親戚の富樫さん、「おお〜、久し振りだね〜。どうしたんだこんな所で。」「あら〜、暫くね〜。」しかも奥さんもご一緒。富樫さんは親父方の親戚で、親父も信頼する人物。小平に住んでる富樫さんご夫妻が、こんな時間に東京駅にいるなんて、私も不思議でした。「あ、いや、実は・・・。」と軽井沢の事は言わなかったけど、彼女を紹介する事になったのです。何年も会ってない親戚の富樫さんと、こんな東京のど真ん中で会おうとは。こりゃ一体何なんだ。

それから数年経ち、紆余曲折はあったけど、彼女は私と結婚しました。
私達の結婚式の仲人ご夫妻は、この時の富樫さんでした。こりゃ一体何なんだ。

ちなみに、20数年前の5月の連休に東急ホテルで親父とすれ違い、同じホテルに泊まっていた事を当の親父が知ったのは、親父が亡くなる1年前の事です。

今朝、彼女から思い切り聞かれました。「今日は何の日か知ってる?知ってるはずないよね。」今日、11月9日は彼女との結婚記念日なのです。彼女との友達付き合いも、知り合ってから、かれこれ30年、結婚記念日は数えて20回目になるのかな。不思議、こりゃ一体何なんだ。

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