松本英尚のベトナム旅行記(無修正版)



   
株式会社 稲田亀吉商店
専務取締役 松本英尚
Hidehisa Matsumoto


松本専務から貰った、ベトナム旅行記の原稿そのまま(無修正)です。
添削がいかに大変だったか、読んでイライラしたか、お酌み取り下さい。




ベトナム旅行記 〜プロローグ〜

コンパス会海外研修旅行。ここ数回は連続してタイへ研修旅行に行っていたが今回はメンバーの一人である三浦さんの提案でベトナムダナンへの旅となった。

7名での研修旅行であったが、過去にベトナムへ行った経験があるのは三浦さんと天野さんの2名だけである。ただし行った地域はダナンではなく、別の地域だったとのことでベトナム初体験の他の5名はもちろんのこと、7名全員がダナン初体験の研修旅行になった。コンパス会メンバーは海外旅行になれているとはいえ、初めての地へ行くにあたり特に私は不安と期待が入り混じった心境で出発当日を迎えたのである。

ダナンへの道のりは、仙台空港から始まった。仁川空港を経由しダナン国際空港へ到着。そこから車に約30分揺られ今回の宿泊先のプルマン・ダナン・ビーチリゾートへと到着。

既に日本時間は午前1時をまわっており、日本より2時間遅れのダナンの現地時間は午後の11時を過ぎていた。山形を出発してからざっと17時間の長旅であった。

ダナンで最初に感じた印象は、暑い!

事前に旅行代理店から聞いていた情報では夜は肌寒いので長袖が必要とのことであった。ところが、Tシャツ以外全く必要のない気候であった。今やこの世の中、家にいても世界中の情報をリアルタイムで瞬時に得ることが出来ると思っていたが、ネットの情報がいかにいい加減なものであるか改めて痛感した。やはり自分の目で見るまでは信じていけないものだ。閉店間際のホテルのラウンジで辛うじて生ビールを1杯、ジントニックを1杯。これでラストオーダー。何とか救われた気分である。現地のガイドの話では、ダナンはリゾート地であり夜の12時まわっても営業しているような店はないとのことである。そういう意味ではこの時間に到着し2杯のアルコールにありつけたことにむしろ感謝をしなければならない。

しかしコンパス会のメンバーはこよなくアルコールを愛している。飲むとなれば際限のないこのメンバーが、2杯のアルコールで満足する訳がない。ガイドを通じホテルに確認してもらったところ、ルームサービスは24時間対応しているというはなしであった。この手があったか!当然みんな私の部屋に集まり、シーバスを1本、ソーダ、アイスを頼み17時間の長旅の疲れはよそに、我々は初めてのダナンの地でのこれから4日間の楽しい時間への期待を酒のつまみに、海風の心地よい静かなダナンの夜につつまれ、時間のたつのを忘れいつまでも飲み続けたのであった。

そうして夢の中へと導かれ夢のようなダナンでの4日間の旅が始まったのである。いま思い返してみれば夢の始まりであったこの時が一番至福のときであったかのように感じる。旅とはいつもそういうものなのかもしれない。 

コンパス会事務局 松本英尚

(2019/02/13)




ベトナム旅行記 世界遺産を巡って フエ

日の出と共に目を覚ます。午前6時。ダナンで迎える初めての朝。眠い目をこすりながら部屋の中を見渡すと、飲み終えたウィスキーの空き瓶や、潰れさたビールの缶、そして、役目を終え空いたグラスがテーブルの上に散らかっている。

これ、相場通りのチップでも綺麗に片づけてくれるのかなぁ。そんなことを心配するのは日本人だけだろうか。そんなことを思いながらホテル2階の朝食会場へと向かう。メンバー全員での朝食。南国の日を浴び、海を眺めながらの朝食は格別だ。朝食をとる習慣のない私であるが、大げさかもしれないが、二人分の量を食べたような気がする。初めてのベトナム料理。タイの方には申し訳ないが、日本人にはベトナム料理の方が合うような気がする。

今日は旅行第一日目。事前に旅行代理店から渡された行程表には、フエ観光と記載されていた。旅行と言えば、いつも行き当たりばったりの私は、当然今回も事前に下調べを行うようなことはしていない。恥ずかしながら、フエ?地名?建物の名称?何?という感じである。後から調べた情報であるが、フエとはベトナム中部に位置し、フエ省の省都である。

19世紀から20世紀にかけ存在していた阮朝の首都に定められていたそうだ。日本でいう京都といったところだろうか。やはり多少の予備知識は持っていた方が良かったと、今になって反省している。かすかに頭の中に残っているフエの街並みや、要塞のような出で立ちの嘗ての王宮。歴史を知った上で見ていれば、街並み全体を彩っている歴史的建物の趣や、その時代に住んでいた人々の賑わい、王宮内で起こった様々なドラマ等、色んなことを思い浮かべ、少し感傷に浸りながら見ていたことだろう。

フエのという都市は、様々な歴史を持っている。古くは、東南アジアの内陸部からの荷物を中国へと運ぶ積出港としての役目を果たしていた。その後、様々な歴史を経て、1801年、阮福暎がフエを制圧。阮朝の首都としての歴史の始まりである。我々が見学したフエの街並みの原形は、この時代に築き上げられている。その後、1883年にフランスの支配下になった後も、阮朝の皇帝は第二次世界大戦末期までフエの宮殿に住み続けている。1945年8月24日、時の皇帝パオ・ダイは退位を宣言しフエの地を去り、阮朝は滅亡し歴史の幕を下ろしたのである。1963年トゥーダム寺のティック・ティウ・ディらの僧侶が民主化・伝統仏教の弾圧を行うゴ・ディン・ジェム政権に抗議し焼身自殺を行う。1968年のテト攻勢においては、町で戦闘が展開され、フエの市街地は甚大な被害を受ける。およそ2800人の官吏、警官、教師、学生が南ベトナム解放民族戦線の兵士により殺害されるという、悲惨な歴史が刻まれている。もし機会があれば、次はフエの歴史を巡る旅をしてみたいものだ。フエの地を訪れてから約2週間の時が過ぎた。この旅行記を書くためにフエという都市のことを学んでいく内に、どうやらフエという都市には人を引き付ける何かがあるようだ。

今度はその答えを探しに行く旅でもしてみようか。

フエ観光を終え、昼に飲んだ赤ワインの酔いを残しながら車に揺られ、フエの背負った歴史を全く知らなかった私は、ダナンの夜の街に心躍らせながら、ダナンの街へと戻っていったのである。

(2019/02/14)




ベトナム旅行記 3日目ホイアン観光

昨日は世界遺産フエ観光。かなり寝不足での1日コース。山形との温度差は30℃近く。50歳目前の体は、気持ちとは裏腹に疲労困憊。昨晩はホテルの部屋に戻ったあと、そのままバタンキュー。気が付いたら朝。今日は世界遺産ホイアン観光。これまたフエに続き予備知識はゼロ。出発予定が昼からの為、午前中はホテルのビーチでのんびり過ごすことにした。昨晩のガイドさんの話では、現地の人は早朝か夕方前にしかビーチには行かないとのこと。日中は日差しが強く、日焼けを避けたいんだと。朝食後、ビーチに行ってみるとほぼ貸し切り状態。最高!砂浜の真ん中には、カウンターが円状になっているビーチバーがある。いやー、今日の出発が昼からで良かった。ビールでも飲みながらのんびり昨日の疲れを癒そう。

ビーチバーのオープンまでにはまだ時間がある。そこで三浦さん、寺浮ウん、私の3人で海に入ることにした。日本の海水浴場より高波ではあったが、遠浅で数百メートル沖に行っても肩が浸かる程度だった。我々オジサン達3人は無邪気にはしゃぎながら海の波と戯れた。がっ!ここから人生初の恐ろしい体験をすることになる。私の目の前にかなり大きな波がっ!手遅れ。海水を飲んでしまった。塩分濃度が100%か!と思うくらいしょっぱい!というより辛い!むせた途端に足も届かなくなり必死の思いで岸へ向かって泳ごうとした。がっ!全く進まない!小学校のときスイミングでならしたはずなのに。溺れる!真面目にそう思った。白状すると砂浜に現地の青年レスキューがいたが、この期に及んで助けられたら『恥ずかしいよな』などとくだらないことが頭をよぎる。他の2人が余裕で泳ぎながら岸へと向かっている姿が見えた。正直に言うと海で溺れるなんて、どうして起こるのか疑問だったが考えを完全に改めることにした。実は三浦さんも寺崎さんも同じように必死だったそうだ。その後、妙な連帯感が生まれ、ビーチバーでジントニックを片手に我々は無事の帰還に乾杯をした。

午前中の出来事を笑いのネタにしながら、コンパス会メンバーは車に揺られ今日の目的地、ホイアンへと向かった。ホイアン。最初の印象はというと、賑やかで楽しそうな雰囲気はあるが、あまり好きにはなれなかった。他のメンバーはどう感じたかは分からないが次にまた行きたいとは思わなかった。まずは街並みの色。日本人には好きになれない色合いだと感じた。半分が中国人の町、もう半分が日本人の町との説明を受け、時間の関係もあり日本人町を散策した。ところがどこにも日本の文化を感じるものがない。それが何故なのかは分からないが、どうみても中国にしか見えない。一番は建物の色に原因があると感じた。どこを見回しても赤や黄色などの原色ばかりで情緒らしきものを全く感じなかった。

アジア諸国では、過去に中国、韓国、フィリピン、タイに行ったことがあるが確かに原色系がどこの国も多く、日本が例外なのかもしれない。唯一関心を持てたことといえば、夕食会場のサクラというベトナム料理店だった

全然知らなかったが、2017年のAPECの時に阿部首相が来店したそうだ。店にはそのときの写真が飾ってあった。特に普段は阿部首相に何の興味も抱いていないのに、日本人てなんてミーハーなんだろう。若しくは平和ボケしているのか!店に飾られた安倍首相の直立写真に向かい、私は自分のスマホを取り出し写した。この写真だけは日本に帰って来てからも見返すようなことはしていない。決して現政権を非難しているわけではない。

それだけ我々日本人は政治とは無縁の世界で生きているのだろう。社会主義が支配するこの地で、冷えた白ワインに酔いながら、皆といつも通りの笑い話で盛り上がる。心の片隅で無意識にそんなことを考えていた。

(2019/02/15)




ベトナム旅行記 4日目 フリー観光

4日目の朝。疲労も大分たまっているはずなのに今日も午前6時に目が覚めた。窓の外を眺めると、いつものように美しい朝焼けが広がっていた。この光景を見るのも、もう3回目。美しいとは感じるが、それ以上は感じなくなっている。昨日のホイアンが自分の中で消化不良で終わったからなのか。それとも、日本では常に何かに追われる生活のため、どこか心にゆとりを持てない人間になってしまったのかもしれない。そんなことを思いながら、皆が待つ朝食会場へ向かった。今日はこの旅行の中で唯一のノープランの日。不味い訳ではないが、そろそろ飽きてきた朝食をとりながら、みんなで今日のプランの話で盛り上がった。こんなとき率先して提案するのが悪戯好きの三浦さんである。さすがに初の地ダナンでは、三浦さんといえど裏はないはずだ。午前中はホテルのプールに入りビーチでのんびり。これは全員一致。午後は色々と意見が出たが、記憶では三浦さんが提案したダナンの繁華街に行くことになった。

朝食後、全員ホテルのプールに集合。大類ご婦人以外は水着に着替えプールに入った。私も含めメンバー全員が、いつものごとく子供のように大はしゃぎ。このトシになってもはしゃいでいるのって日本人だけのような気がする。若しくはコンパス会のメンバーが永遠の少年なのか?体力を使い果たし、お腹も空いてきたので、ランチはビーチにあるオープンテラスで食べることにした。いま思い返すとこの時の食事が一番口に合っていたように思う。頼んだ料理はいたってシンプル!分厚いステーキと赤ワイン!他にも何か頼んだような気もするが覚えていない。

いやー、暑い太陽の日差しを浴びながら、ステーキの塊をほおばり、赤ワインを喉に流し込む!ダナン最高!ビーチ最高!って。それならベトナムじゃなくても良くない?なんてことは置いておいて、至福のランチのひと時でした。まだ残る余韻にひたりながら、午後はゆっくりホテルの部屋で疲れを癒した。

夕食はドラゴン橋の近くの繁華街へ出向く。適当に店を探して入ることにした。このドラゴン橋。全体がドラゴンの姿をしている。夜になるとライトアップされ、ゴールド、グリーン、ブルーと変化していく。その光景を間近でみた。一言、圧巻です!絶対にここでしか見られないな!日本で留守番をしている子供達にも見せたいものだ。とにかくド派手!日本ではコストの面で不可能だと思う。なぜこの社会主義の国でこんなことが可能なのだろうか?いや!逆に社会主義だからこそ可能なのだろう。

夕食は近くのベトナム料理店に入った。ベトナム料理店のはずなのに、ほぼ韓国人の客で店は埋め尽くされていた。個人的にはこの店が一番口に合わなかった。酒の種類も少なく、もはや何も受け付けない。次の日ガイドさんから聞いいたところ、韓国人向けのベトナム料理店とのこと。この店については、ここまでに留めておく。

そのあとに行った店の名は『リンリン』。日本人向けのキャバクラといった感じ。店のつくりは日本のカラオケボックスのような感じ。小部屋がいくつもある。案内された部屋にベトナム人の若い女性が入ってきて、それぞれお気に入りの女性をその場で指名。

だがここは社会主義国。決して如何わしいことをしてはいけない。タイと同じなどと勘違いをすると大変なことになる。システム的には日本のキャバクラと同じで、多少の日本語も話せることもあり、それなりに楽しめた。

ここでも同じ話になるが、何かが足りない。変な意味ではない。でもこれなら別にベトナムじゃなくても良いのでは?そんな疑問も残りつつ、あることに一つだけ違和感を覚えたのである。それは三浦さん。若い女性が苦手だと常々公言している。日本では大のキャバクラ嫌い。ところが、そんな方が自分から女性を指名していた。この違いはどういうこと?まだご本人には聞いていない。後で機会があったら聞いてみよう。

それなりに楽しめたが、やはり何か満たされない。その後、メンバーはバラバラになり、それぞれの楽しみを探しに出かけた。

ダナンの街を歩いていて、社会主義を肌で感じることはないが、このもの足りない感じがそういうことなのか。ベッドに横たわり、ふと目を閉じるとそんなことが頭に浮かんだ。そろそろ日本が恋しくなり始めていた。

(2019/02/16)




ベトナム旅行記 5日目ミーソン編

今日はベトナム滞在最終日。最終日の流れはこう。午前11時(だったかな?)迄にホテルのチェックアウトを済ませ、近場で昼食を取りその後ミーソンへ向かう。観光後ダナンへ戻って夕食を取り午後11時20発の飛行機で帰国の途に就く。考えただけでお腹一杯の行程。全く気乗りしない。確か伊藤さんが出発前に言ってたなぁ。ミーソンなんて行く必要ないんじゃないかと。ベトナムの方には大変申し訳ないが、行ってみて個人的にもその通りだと感じた。

チェックアウトを終え、ガイドさんにメルキュールダナンホテルへと連れて行かれた。1Fのレストランで昼食のようだ。2017APECで阿部首相が宿泊したホテルとのこと。ここでの食事は美味しく頂いた記憶がある。白ワインも結構飲んだ。ここで一つ凄い体験をする。ボーイが笑みを浮かべ我々のテーブルに数本、生の青唐辛子を持って来た。薬味としてナンプラーに刻んで入っていた物だ。元々辛いのは苦手な為、恐る恐る、ほんとに先の方約3ミリ程度かじってみた。痛いッ!

辛いッ!マジ痛いッ!この世にこんなに辛いものがッ!辛いのが大好きな天野さんも泣いていた。私といえば夕食の時まで痛いのが続いていたような気がする。あのボーイさんはきっと、ベトナム版の三浦さんと言ったところだろう。昼食を終えいざミーソンへと向かう。この道中がまた長い。二時間くらい乗っていただろうか。最初は物珍しかったベトナムの村の風景ももう飽きた。みんなはすっかりお昼寝タイム。ただ、白ワインで気分を良くした私と伊藤さんだけはテンションが上がり、行きはズーっと二人でたわいもない話で盛り上がっていた。そしてミーソン聖域に着く。暑い。夕方近いのにまだ暑い。しかも歩き。カートで途中までは行けたが、そこからは全て歩き。まあみんなでワイワイ言いながら歩いたので、何とか目的地点までは行ったが遺跡の見学は一瞬で終わり。

イメージとしては、以前コンパス会で行ったことのあるタイのアユタヤ遺跡を小振りにした感じ。個人的には何の興味も沸かない。ただ古いレンガが山積みになっているだけにしか見えず神秘さを感じない。様式美なんてものは当然皆無。なんだか雑多なモノとしか見えなかった。歴史的な価値はあるのかもしれないが、それは偉い学者の方々の間での話では。私の様な一般人が、わざわざこれだけの労力をかけて見に行くものではない。これが単なる庶民である私の率直な感想です。ベトナムムの方々申し訳ありません

ミーソン見物を終え、ダナンの夕食会場へと向かった。ご察しの通り、帰りの道中は伊藤さんも私も爆睡でした。最後の晩餐。夕食会場に着いてビックリ。昨日の夕食会場の隣ではないか。こっちは同じベトナム料理でも日本人向けらしい。一口食べて、その通り。昨日とは打って変わって何を食べても上手い!酒も上手い!大類さんは日本酒を美味しそうに飲んでいた。

同じベトナム料理でこんなに違うものか。日本と韓国。距離は近いが食文化からして全く違う。文化も違えば国民性も大きき違う。色々と上手くいかない訳だ。これは決して政治的な意見ではありません。

我々コンパス会メンバーは、夕食を終え帰国の為に空港へ向かった。空港まではそう遠くない。空港へ着くとガイドを務めて頂いたベトナム人女性のミーさんに感謝を込めてお別れの挨拶をした。どんな時でも別れの瞬間というのは切ない感情が湧くもんだ。このトシになると特にそうだ。ミーさんは独学で日本語を学び現地ガイドになったと言っていた。

日本に彼氏がいるそうだ。そう簡単に会うことが出来ないであろうに、寂しさのようなものは決して見せていなかった。

社旗主義という資本主義と比較すると夢を持てない社会。これはミーさんがガイド中仕切りに言っていた。でも私にはミーさんは、明るく、そして強く、立派に自立している人間に感じた。むしろ日本で自由に暮らしている私の方がミーさんの姿に学ぶことが多いと感じた。

午後11時20分を少し過ぎ、我々の乗った飛行機はベトナム空港を飛び立った。

(2019/02/17)




ベトナム旅行記 帰路へ〜プロローグ〜

ダナンから仁川までの飛行機では完全爆睡。何一つ記憶がない。機内食もスルーされた。仁川国際空港に着いたのは現地時間で午前5時40分ころ。機内から出た瞬間、めちゃくちゃ寒い。それもそのはず外気温は−3℃。私は一つ大きな失敗を犯してしまった。昨夜の内に何度も頭の中でシュミレーションを行ってはいた。仁川の最低気温が氷点下なのは知っていた。だから、仁川で着替えられるよう、冬服は機内に持ち込むつもりだった。それなのに。ダナンで全部預けてしまった。見渡すと大半の人がダウンジャケットやらコートやらを着込んでいる。自分だけがTシャツ姿。我慢するしかない。

空港内は暖房も効いているので震える程ではなかった。でも、なんだかみすぼらしい。せめて長袖のシャツだけでも買おう!

仁川国際空港は24時間営業。店舗数もかなりある。時間もあるし、速足でかなりの店を探しまわった。ところが、免税店やらブランドショップやらが多く、服を売っている店が全然見つからない。やっと見つけたと思ったら日本円で2万円はする物ばかり。諦めました。ふと思い出した。そういえば内の奥さんが、最近ネットで買った韓国のハニーバターにハマってたなぁ。土産店に入ってみると家で見慣れた袋がたくさん置いてある。いつもお世話になっているママ友の分も購入。ベトナム土産よりも韓国土産の数の方が多くなってしまった。そんなことも有りながら、Tシャツのまま仁川国際空港を発ち、仙台へ向かう。仙台国際空港までの所要時間は約2時間。無事仙台に着き、車で山形へと帰還。

ダナン国際空港を飛び立ってからどのくらいの時間を費やしただろう。前日ミーソンで汗だくになり、シャワーを浴びることも叶わず、自分にとっては非常に辛い山形までの道のりであった。旅行というよりは遭難者の帰還という気分だった。家までの帰路、一人で車を運転しながら今回のベトナム旅行を振り返ってみた。気心知れた中の良いメンバーとの旅行。今回も楽しい思い出が一杯出来た。みんなで楽しく酒を飲んだ。みんなでプールにも入った。海で溺れそうにもなった。いろんな観光名所にも行った。本当に楽しかった。

ただ今回、みんなには話してないが。私の中にはもう一つの小さな目的があった。冷やかしではなく。社会主義というものがどういうものなのか。そこで暮らす人々はどんな思いを抱いているのか。自分の肌で感じてみたかった。自分がまだ子供だったころ、東西の国は常に緊張した関係にあった。世界は西側と東側に完全に分断されていた。学校の授業でもそう教わった。東側諸国に対し、何か得体の知れない恐怖感を覚えた記憶がある。

その後、冷戦が終結。それから既に20年以上が経過した。自分にとって、社会主義とはもはや過去のものになっていた。

そして今回のベトナム訪問。自分は政治学者でもないし、経済学者でもない。普段は日本という国で平凡に暮らしているただの庶民である。社会主義の中で暮らす人々は幸せなのだろうか。単純な疑問。今回の旅行中、ベトナム人の中で一番話をしたのが、当然であるがミーさんだ。

彼女については前にも書いたが、職業は現地ガイドである。ベトナムの平均月収よりは高い収入を得ていると言っていた。その彼女が何度も話していたこと、どんなに頑張ってもこの国では限界がある。一部の権力者が絶大な力を持ち、その地位は決して変わることがないのだと。一般庶民がそこへ到達することは決して起こりえない。だから希望を持つことが出来ない。そしてこうも言っていた。

ある夜のこと、メンバーみんなと大勢の人で賑わう居酒屋で飲んでいた。見た目で分かるそうだ。あの集団は公務員だよ、だから彼らは自分達を特別な存在だと思っている。私は公務員が嫌いだと。

リンリンの女の子も似たようなことを言っていた。どんなに頑張ってもあるところまでしかこの国では行けない。日本人向けのガイドになれば、それでも少しはいい暮らしができると。短い滞在期間だったので、数人のベトナム人としか話をすることが出来なった。その短い期間のふれあいの中で、一つ感じた事がある。彼女達は生きて行くことに対し、緊張感を持って臨んでいるということ。大きな夢を持つことが出来ないと言いながら、生きていく為に最大限の努力をしている。果たして自分はどうだろうか。確かに仕事、家庭、仲間、一般的に誰もが大切にしているものに対しては全身全霊を注いでいるつもりだ。そこは変わりないと思う。ただ自分の胸に手をあてもう一度考えてみる。『生きる』とは。

この言葉、決して軽く考えた事などない。でも、常に自分の意識の中心にあるか?そうではない。日常の中に埋没してしまっている。

彼女らは違う。『生きる』、毎日の普通の生活の中で、常に意識の中心にあるのだと思う。

彼女達に出会った時から感じる強さみたいなものは、そんなところから来ているのかもしれない。それが自らの思いからなのか、そうならざるを得ないのか。それは分からない。

自分は社会主義者ではない。自由を愛している。でも、彼女達から何か学ぶべきものがあるような気がする。ふとそんな考えがよぎった。

ここは日本。自由もあり、平和もある。

明日から、また日本での生活に戻る。この気持ちもすぐに忘れていくだろう。それが今の自分。

ダナンの人々は皆、我々日本人に優しい方ばかりでした。ダナンで知り合ったすべての人々へ。

ありがとうございました。感謝の気持ちを込めて

(2019/02/18)
 
松本英尚のベトナム旅行記(無修正版)完
 



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